1979年、実は、エースは脱退の意思を見せていた。ピーター脱退後、ジーン.ポール対エースと言う
不均衡なバランスになってしまい、全てのの決断を下し、多数決でエースを無視してしまうジーンとポール
に対して”支配狂”と呼んだと言う。
脱退の兆候が見え出したのは1982年、ニューヨークからヨーロッパへ向けて衛星中継されるライブでの
事。キッスが賞を取ったイタリアの「サンレモ音楽祭」への出演の為の中継ライブにエースはついに姿を
現さなかった。スタッフがエースの自宅に迎えに行ったがエースはとてもコンサートを行える状態になかった
と言う。
この頃エースは頻繁に自動車事故を起こしていた模様。(1983年にはニューヨークのブロンクス・リバーパーク
ハイウェーを時速100km以上で、しかも逆走!パトカーとのカーチェイスを繰り広げていた。この事件
は「ニューヨーク・ポスト」紙に大々的に取り上げられた。)事故の入院を期に脱退を決意した様である。(写真はACE愛用車と同型車)
1982年、ついにエースは弁護士を同伴して、脱退の会議をジーン.ポールと行う。エースはピーターの
脱退時よりもはるかに不利な条件でも脱退したかった様である。しかし、エースの脱退にはレコード会社との
契約絡みで極秘に進行され、正式発表は1983年8月3日になったのである。