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| ’70年、ニュー・ハンプシャー州サナピー湖畔のアイスクリーム屋で、アルバイト従業員 だったジョー・ペリーとその店の常連客だったスティーヴン・タイラーが出会いすぐに意気 投合、二人はトム・ハミルトン、ジョーイ・クレイマー、レイモンド・タバノとの5人でバンドを 結成。スティーヴンの高校の後輩であるジョーイ・クレイマーが、高校生の時に考えていた 、空気を表す「エアロ」と、職人を表す「スミス」の造語を合わせて、廻りの空気を造り 変えるバンド、「エアロ・スミス」というバンドの名前を考案。5人はすぐボストンへ出て来る。 5人でベッドルームが2つしかないアパートを借り、そこで共同生活を開始。 トムが当時を回想する、、、「当時、ベッドルームが足りなくて僕は居間で寝起きしていたんだ。 そこにはピアノを置いてあって、ある朝、目を覚ますと、スティーヴンがピアノを弾きながら歌っ ていた。それが『ドリーム・オン』のサビ部分だったのさ」。 貧しい日々を送りながらも、彼らは精力的にライヴ活動を続けるが、’71年、レイモンド・タバノが 脱退し、ブラッド・ウィットフォードが加入、現在の形を形成。 地元のクラブ・マネージャー、ジョン・オトゥールが懸命な彼らの姿を見て、練習場所を提供したり、 地元プロモーターのフランク・コネリーを紹介。彼らの可能性に期待したフランクはメジャーデビュー の為に、デイヴィッド・クレヴスとスティーヴ・リーバーにエアロスミスをゆだね、’72年、コロンビア・ レコードと契約。’73年1月、アルバム『Aerosmith』をリリースしたが、地元ボストン・エリア以外 ではほとんど売れず、メディアの反応は、「ストーンズのコピー・バンド」等とあしらわれ、(これは スティーブンの口のデカさからか?)音楽的評価には言及されることもなかった。ロード活動を続け ながら、同年暮れにはニューヨークのレコード・プラント・スタジオでボブ・エズリンをプロデューサー に迎えてレコーディングを開始する予定だったのだが、見解の相違からボブが降板、急遽ボブの 片腕だったジャック・ダグラスに代わると言ったプロデューサー交代劇があった。 ジャック・ダグラスはプロダクションを設立して、ツアーを再開、同年秋には、ニューヨーク、セントラル・ パークで行なわれたシェーファー・ミュージック・フェスティバルで最終日のトリを務め、東海岸での 地位を確かなものに。’75年4月には3枚目のアルバム『Toys In theAttic』リリース、プラチナ・ アルバムを獲得、彼らに自信をもたらすことになり、全米制覇を目指して全米ツアーも開始。 更に前2作のアルバムも相次いでゴールド・ディスクを獲得。’76年1月、シングル『Dream On』が 再発売され、ビルボード誌で最高6位をマーク。 同年5月永遠の名盤となる『Rocks』がリリース。発売と同時にゴールド・ディスクを獲得し、すぐに プラチナ・ディスクをも獲得。同時期スタートの全米ツアーでは、各地で観客動員数の記録を更新。 | ||||
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| 飛ぶ鳥を落す勢いのエアロ、富と名声を得て、欲しいものは何でも手に入れる事が出来た彼らは、やがて白い粉にも、、、 ジョー・ペリーが最初にドラッグに手を染め、そしてスティーブンも、、、。同年秋には初のヨーロッパ・ツアーを始めるが、 後半は中断せざるを得ない状況に陥るも帰国後すぐに全米ツアーを再開、11月には、シングル『Walk this Way』発売。 ビルボード誌最高10位。’77年1月、初来日。当時日本で、キッス、クイーンと共に「三大ロック・バンド」「ロック御三家」等と 騒がれたエアロスミスは、その日本公演を大成功に収める。春のレコーディング、夏に再びヨーロッパ、秋にはまた全米ツアー と、もはやドラッグの力無しでは乗り切れない彼らにプロデューサー、マネージャーも、彼らのドラッグを止められなかった。 10月9日、フィラデルフィアのスペクトラム・アリーナでの公演中、客席から花火投げ込みという悪質な行為に襲われ、ジョーは 右手を火傷、、顔に怪我を負ったスティーヴンは失明説まで出る大騒ぎとなる。同年暮れにはジョー・ペリーの自宅が全焼して しまうと言った事故が起こる。5枚目のアルバム『Draw The Line』が発売されるが、この頃、トキシック・ツインズ(スティーヴン・ タイラーとジョー・ペリー)の確執が確固たるものとなり、頭の痛いマネジメントはバンドの再集収の為にと、’78年、「Back To The Rootsツアー」と名打って、クラブ・ツアーを敢行させ、映画『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』へ出演させたり と、バンドにゆとりを持たせようとした。アルバム『Draw The Line』は発売と同時にプラチナ・ディスクを獲得、ライヴの動員数も順調 に推移していたが、バンドはとても次のアルバムのレコーディングに入れる状態ではなく、同年10月、初のライヴ・アルバム『Live! Bootleg』をリリースしたが、バンドにとっては単につなぎでしかなかった。確執を深めるジョーとスティーブン、静観視する3人。 今やバンドは完全に分裂。’79年春、レコーディングの準備に入るが、ジャック・ダグラスの姿は無く、「もう、どうでもよくなっていた」 と、当時を語るジョー・ペリー。レコーディングは開始したものの、進行しない展開。マネージメントはレコーディングを中断させて、 バンドをツアーに出した。しかし、皮肉にもそこで二人の確執が決定的となり、ジョー・ペリーはエアロスミスを脱退。すぐにソロ・ プロジェクトをスタートさせる。残った4人はジョー抜きでレコーディング、『Night In the Ruts』を同年11月リリース。時同じく、11月16日 にはジョー・ペリー・プロジェクトが、地元ボストン・カレッジでファースト・ギグを行なった。当日、開演前にスティーヴンはブラッドと共に バックステージにジョーを訪ねるが、挨拶だけすると一人先に帰ってしまうといった状況であった。 | |||||
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| ’80年1月、ジョーの代わりにジミー・クレスポを起用して、再びアリーナ・ツアーを開始。 だが、アルコール中毒症状のスティーヴンが、ツアー途中何度もステージで倒れてしまい、 不安定なスティーヴンでは続行不可能な為、残りスケジュールはすべて中止になってしまう。 地道にライヴを重ねるジョーとは対照的に、エアロスミスの活動は暗礁に、、、。 同年秋にはスティーヴンが片足のかかとを殆ど失うほどのバイク事故を起こし、 長期の入院を余儀無くされる。活動のブランクを危惧したマネージメントは、同年10月再び 「つなぎ」として、初のベスト盤『Greatest Hits』をリリースする。 このアルバムのリリースをまったく知らず、発売後にファンから聞いて知ったのがジョー。 エアロスミスの距離は広がるばかりとなった。リハビリにさえも無気力なスティーヴンを中心に バンドは主だった活動もせず、ドラッグ漬けに、、ブラッド曰く「バンドはカオス(混沌)と化した」。 同年8月、ブラッドはデレク・セント・ホルムズと組んでアルバム『Whitford/St.Holmes』をリリース。 エアロスミス脱退を決意する。その後ブラッドは2年半の間、バンド生活から離れることとなる。 ’82年、新たにジャック・ダグラスの友人だったリック・デュフェイを加えて、再出発を計る。 スティーヴンは、薬漬けの生活を改善すべく、リハビリを開始するも中々断ち切る事が出来ない。 そんな中、同年9月、通算7枚目のオリジナル・アルバム『Rock In A Hard Place』リリース。 ジョーもブラッドも抜けた、タイトル通りの非常に厳しい状況であった。 |
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| ’83年3月、ステージ上でスティーヴンは、ドラッグの過剰摂取で1万4千人のファンの目前で 倒れてしまう。MTVが始まり、音楽は映像でも楽しむ時代に。当時を振り返ってトムは、 「MTVがやり始めたことが、あっという間に世間に浸透したのには驚いた。でも当時僕たちは 分裂してたからね、『オー・マイ・ガーッド!MTVなんて新しいものが出来たのに、俺たちは バラバラで時流に乗れやしない!』って絶望的だった」。’84年2月11日、ボストンのオーフェン・ シアターでのバレンタイン・デイ・ギグにジョーとブラッドが訪問。この夜から、また彼らの交流が 始まった。トムの家にスティーヴン、ジョー、ブラッド、ジョーイが集まり、ジョーのマネージャー、 ティム・コリンズをマネージャーに迎え、もう一度、元のメンバーでエアロスミスをやって行く会合 が行なわれた。ティム・コリンズは完全復活を目標にドラッグ断絶の為に、徹底して教育。 同年5月、オリジナル・メンバーによる、「Back In The suddleツアー」がニュー・ハンプシャー州 からスタート、大成功に終わる。’85年11月、ゲフィン移籍、復活第一弾でもあるアルバム 『Done With Mirrors』をリリース。商業的な成功にまでは至らなかったが、その事が、かえって さらなる努力へと繋がるのであったのだろう。’86年、古巣コロンビアが、アルバム『Classics Live!』をリリース。復活の良い後押しとなる。同年7月、エアロスミスの大ファンだった、という 黒人ラップ・ミュージシャン、RAN・DMCが『Walk this Way』をカバー。このビデオ・クリップ撮影に ジョーとスティーヴンも参加。MTVでヘヴィ・ローテーションとなった同曲は大ヒット、新しいファンも 掴むことになった。同年秋、ティムは、完全に薬とアルコールを断ち切るよう、ツアーの合間に スティーヴンを入院させる。ジョーも自ら進んで入院。健全な身体に戻って、さらにツアーを続けた。 | ||||
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| ’87年8月、コロンビアからアルバム『Classics Live! U』リリース。同月、その後の黄金の年月の幕開けとなるアルバム 『Permanent Vacation』リリース、『ラグ・ドール』、『デュード』など、名曲に溢れたこのアルバムは大ヒットを記録、 日本でも’88年1月シングル・リリースされた『エンジェル』が大ブレイク。そして’88年6月、11年ぶりの来日公演。’89年、 12年ぶりの欧州ツアーに出る。9月、再びプロデューサーにブルース・フェアバーンを起用してアルバム『Pump』リリース。 翌’90年までに『エレベイター・ラヴ』、『ジェイニーズ・ガットー・ア・ガン』、『ワット・イット・テイクス』など、ツアーとMTVの 相乗効果で立て続けにヒットを飛ばす。この年、初のオーストラリア・ツアーも敢行。同年9月、3度目の来日公演を果たす。 ’91年には、再び古巣のソニーと契約を交わす。『ジェイニーズ・ガットー・ア・ガン』で、グラミー賞受賞。11月には貴重な 音源を集約したアルバム『Pandora's Box』もリリース。’93年4月、アルバム『Get A Grip』)をゲフィンからリリース、1,600万 枚という、驚異的な数字を記録。相変わらず精力的にワールド・ツアーを続け、いくつものサントラ盤にも参加。’94年春、 4度目の来日。武道館で連続7回公演という海外アーティストの記録樹立。同年暮れ、ニューヨーク州アルバニーでゲット・ ア・グリップ・ツアー終了。12月19日には、ボストン市内に「ママ・キン・ミュージック・ホール」という自分達のクラブをオープン させ、ラジオ全米生中継で皮切りライヴを行なった。’95年新しい曲作りの中、11月には、G-Spotsという仮名を使って、 ボストンのライヴハウスで二夜に渡ってシークレット・ギグを行なう。’96年にはフロリダに移動してレコーディング開始。 この頃から、マネージャー、ティム・コリンズとの確執が深まり、7月にはついに解雇。バンドのパブリシストを務めていた ウェンディ・リースターが正式にマネージャーと決まり、自分達のマネージメント・オフィス、マーガス・エンターテインメントを 設立。’97年3月、通算12枚目のオリジナル・アルバム『Nine Lives』リリース。5月ヨーロッパからワールド・ツアーをスタート。 夏〜冬まで全米ツアーを続行。翌’98年3月には5度目の来日で、ドーム・ツアーを敢行、大成功に終わらせた。その後も 全米ツアーを続けるが、4月29日、アラスカ州アンカレッジ公演のアンコール中に、スティーヴンは靱帯裂傷という大怪我に 見舞われる。ギブスをつけたまま『ミス・ア・シング』のビデオ撮りを行なうが、手術後半年間のリハビリに励む。この間に、 シングル『ミス・ア・シング』が驚異的なヒット、9月11日ニュージャージー州カムデンで、復帰を果たす。9月13日には朋友 テッド・ニュージェントのゲスト参加を迎え、デトロイトで2デイズ公演を大成功させた。以後’99年1月まで全米ツアーを続け、 スティーヴンはボルトを抜く2度目の手術を受け、再び3ヵ月のリハビリの日々を挟んで、4月11日、オハイオ州コロンバスで 完全復帰。5月末までアメリカを廻るとヨーロッパへ渡り、最後は7月17日ポルトガルで、ナイン・ライヴズ・ツアーを終了。 年末、ミレニアム・カウント・ダウン公演を「ロア・オヴ・ザ・ドラゴン・ツアー」と名打って6度目の来日、ドームを満杯にした。 | |
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