BIOGRAPHY

スウェーデンが生んだ世界的人気グループ、アバ。
ビョルン・ウルヴァース(ギター)、ベニー・アンダーソン(ピアノ)、アグネタ・フォルツコグ(ヴォーカル)、
フリーダ(アンニ・フリード)・リングスタッド(ヴォーカル)の4人。
1974年から1982年まで実働期間約8年間でシングル・アルバム合わせて約2億5千万枚以上の売上を
誇るといった記録を持っており、一時はスウェーデンを代表する自動車メーカー、「ボルボ」次ぐ外貨を稼い
でいたとも言われ、利益率においては上回っていた事もあった、スウェーデン出身で初めて世界的に
大成功を収めたグループ。
アグネタ・フォルツコグ






ビョルン・ウルヴァース

ベニー・アンダーソン






フリーダ(アンニ・フリード)・リングスタッド


History of ABBA
この2人の出会いがアバ出発点

ソロ歌手時代のアグネタ

スウェーデンで音楽活動を続けていたビョルン・ウルヴァースと
ベニー・アンダーソンが1966年、公演先で出逢い意気投合。
作曲家チームとして活動を開始した。

アバを結成する前、ビョルンは「フーテナシー・シンガース」と言う
スウェーデン国内でのコンサートではいつも大観衆を集めていた
フォークグループに在籍していた。「いくつかのフォークグループが
集まって一緒にコンサートを開くんだ。ひと夏に120のステージは
こなしていた。しかしひどいグループ名だったな(笑)」と当時を懐古。
 同時期、同じく国内で人気を博していたへブスターズに在籍して
いたのがベニー・アンダーソン、「僕らは出会う運命だった。同じ様な
場所で演奏し、2人とも行動的。グループの音楽の中心で似た者
同士だった。」1960年代、へブスターズはスウェーデンのビートルズ
と評価され、ベニーはこのグループでキーボードを担当していた。
「僕らはチャック・ベリーやエディ・コクランやストーンズのカバーを
やっていたんだが、もっといい曲が欲しかった。そこで”Sunny Girl”
を書いたんだ。自分らしくていい曲だと思ったよ。売り出してみると
大ヒットしたんだ、この曲がいきなり1になった時、この世界で
やっていけると思ったよ。それまでは将来への迷いがあったが
この時、自分の進むべき道が分かったんだ。」
 フリーダ(アンニ・フリード)・リングスタッドは1945年、ノルウェー
に生まれ、すぐにスウェーデンに移り住む。10代でダンスバンドの
歌手として活動を始め、20代前半で結婚、2人の子供をもうけ、
その後離婚、ソロ歌手として活動を続けていた。
 アグネタは1950年生まれ、電話交換士をしながら歌手活動を
していた彼女も、人気が出始めると本格的に歌手活動を始める。
「歌手になりたいとは思っていたけど、世界的なスターになるとは
夢にも思わなかった。私はただステージで歌いたかっただけ。」
彼女が最初に掴んだチャンスはスウェーデン版”ジーザス・クライスト・
スーパースター”でのマリヤ役を射止めた事だ。

10代の頃(?)のフリーダ

1969年3月に公演先でフリーダとベニーが出逢い婚約、そして5月、
テレビ番組で共演したビヨルンとアグネタが恋に落ち、7月に結婚。
ビョルン:「ある時、テレビ番組で彼女と共演し、一目で恋に落ちた。」
アグネタ:「彼は優しくて声が魅力的で芸術家肌だった。お互いに
お似合いの相手だと思ったわ。」
ビョルン:「ベニーもフリーダと出会って、2人にも僕らと同じ事が
起こったんだ、嘘みたいだろ(笑)」
その後1970年3月にビヨルン&ベニー名義でファースト・シングル
「木枯らしの少女 (She's My Kind Of Girl)」をリリース, 日本でも
50万枚を越える大ヒットとなった。 同年6月ビヨルン&ベニー共作の
「ヘイ・ギャムレ・マン」をレコーディンした時、アグネタとフリーダが
初めてコーラスで参加。これを機に「ビヨルン、ベニー、アグネタ・
アンド・アンニ・フリード」と名乗って活動を開始、1972年彼らの
初めてのレコード「ピープル・ニード・ラヴ」をリリース。
ベニー:「4人で組む事になった時、彼女達の歌を前面に出して、
英語で本物のポップスをやろうと思ったんだ。」
1973年にリリースした”Ring Ring”はヨーロッパのいくつかの国ではヒットするも名前を世界的に
有名にする程ではなかった。この頃、まだ彼らは”ABBA"とは名乗ってはいなかった。
1974年、マネージャーのスティック・アンダーソンが彼らの頭文字を取ってABBA(Agnetha ,Bjorn,
Benny,Anni-Frid)と改名。 ベニー:「彼がメモに走り書きしたのがきっかけなんだ。
それは缶詰会社と同じ名前だったんだよ。(苦笑)」 彼らは同年4月6日イギリスのブライトンで
開かれたユーロヴィジョン ・ソング・コンテストに「恋のウォータールー」で挑戦。見事グランプリに輝き、
一躍スターダムにのし上がった。 ビョルン:「予選ではルール通りスウェーデン語で歌った、だが、
本戦で勝つには英語で歌うほうが絶対に有利だ。実際スウェーデン語より英語の方がはるかに
出来が良かった。」 全米でもトップ10入り、大ヒット。が、その後のヒット作が中々出なかった。
作家のポール・ガンバチーロが当時を振り返る。「Waterlooの後は順風満帆ではなかった次にヒット
(S,O,S)を飛ばすまでに約一年半も掛かり、大成功の予兆はなかった。」
ビヨルン:「僕らは一髪屋だと思われていた。アバが軌道に乗ったのはS,O,Sがヒットしてからだ。」


 1975年にリリースした「S.O.S.」がイギリスでNo.1、続く
「ママ・ミア」もイギリス、オーストラリアで1位に。
しかし本国スウェーデンでは冷たい批評が続いた。
フリーダ:「当時盛んだった左翼運動の影響だと思うけど、
私達は批評の的だったわ。”金儲けしてる”って、マスコミに
対しては複雑な気持ちだった。抗議しても無駄だったから
レコーディングに集中したの。」
作詞家のティム・ライスは、「アバの成功の秘訣はスウェーデン
にいた事。北欧ならではの音楽と言う意味ではない。彼らは
NYの最新動向等に惑わされずに、常に曲作りに集中する事が
出来た。だからこそ、流行を超えた名曲を生み出せたんだ。」
ビヨルンとベニーはストックホルム沖の島にこもって曲作りに
専念していた。
ビョルン:「アグネタと僕はココに家を買ったんだ。そしてベニ-と
フリーダも島の反対側に家を買い、この島で夏を過ごしながら
曲を作った。回りの島々を眺めているといい曲が閃くんだ。
朝起きて朝食をとり、しばらくするとベニーがやって来てピアノを
弾く。それを合図に曲つくりに取り掛かるんだ。一日に6時間位、
それを毎日続けた。」
ベニー:「曲が出てくるのをじっと待つ、僕のやり方なんだ。洞窟
の中からドラゴンが出てくるのを待つ様に、、、そして出てきた
瞬間を捕らえるんだ。」

 アバを世界的スターにする戦略を立てたのがマネージャーの
スティック・アンダーソンであった。
ベニー:「彼がアバのエンジンだった。彼は僕らが無名時代の時
から僕らの才能を信じてくれていた。」
アバの初期の作品の詩にはアンダーソンの影響が多く、音楽的
にはビーチボーイズ等の影響を受けていた。
サウンド・エンジニアのマイケル・トレトウは、「彼らは音の組立て
を考えていなかった、スタジオで試行錯誤を繰り返した様だ。」
ベニー:「まず、バックの演奏、次に歌やバックコーラスを録音。
すると最初の演奏が不満になって取り直しになる。」
ビョルン「最初、バックの演奏はドラム、ベース、ギター、
ピアノだけ。シンプルそのものだった。」
マイケル・トレトウはバックの演奏の貧弱さを補う為にギターを
2っのトラックに録音して同時に流してみた。
「それを他の演奏でもやってみたんだ。全ての演奏を複数の
トラックに録音し、ほんの少し音程をずらしてミックスすると音が
膨らんだ。ヴォーカルも同様に音程や音質を変えて別のトラック
を作ってそれを元の歌声と重ねると、きらめくようなサウンドが
生まれたんだ。」
 2人の女性ヴォーカルのコントラストもアバの魅力の一つ。
フリーダ:「アバらしい音を作り出すために2人の音質の違いを
際立たせようとしたわ。アグネタはソプラノで私はメゾソプラノ、
私は深い声で、彼女は高い声、ベニーとビョルンは私達の特徴を
把握して曲毎にどちらをメインにするか決めたの。
やっぱり自分が選ばれたかったわね(笑)。」
ビョルンとベニーはアバサウンドを更に発展すべく編曲家を招く。
編曲家アンダース・エリャス:「まずテープを聴いてその曲が
どこまで完成しているか把握し、どう編曲して欲しいか意見を
訊くんだ。それからテープの音を譜面に起こして最高の編曲を
してやった。その割には彼らの反応はそっけなかったな(笑)。」
 1976年にはどの曲にもアバらしい特徴が見られるようになる。
その影には完璧なミキシング作業があった。
マイケル:「ある時からミキシングに時間をかけるようになった。
そしたら、全てが融合した、まるで魔法みたいにね。」
1976年、「悲しきフェルナンド」「ダンシング・クィーン」がイギリスで
立て続けにbPになり、その後の七年間に17ものトップ10シングル
を生み出し、世界的大スターになった。当時フリーダはソロ活動も
しており、「悲しきフェルナンド」の原曲は彼女の歌。
ベニ-:「Fernandoはフリーダのスウェーデン語の唄を英語に変えて
作った物だ。」
1978年、ベニーとフリーダが正式に結婚した。





完璧なミキシング!



プロデューサーのピート・ウォーターマンは「2人の歌唱力をそんなに軽く見てはいけない。それに
外国人であるが故の独特の英語の発音もアバの魅力の一つ。”ダンシング・クィーン”を歌うには
2オクターブの音域が必要だ。低いところから高い所まで、、、超人的だ。」と言う。
また、「いい曲を作りたかったらアバを分析すればいい、レコード作りの最高の手本だ。」とも言う。
それでも’70年代はアバを酷評する人も多かった。
セックス・ピストルズのマネージャー、マルコム・マクラレンは、「アバは憎むべきものの象徴で、
前衛的な若者を否定する存在だった。親が浴室でアバを口ずさむなんて想像しただけで放火
したくなったよ。」
しかし、当時は否定的だったアバを再評価するミュージシャンもいた。
U2ヴォーカルのポノは「パンクロック派にとってはアバは体制の象徴だった。少女趣味だという
理由でね。アバの音楽は完全に無視されたが、結果的には時代を超えて生き残った。アバには
音楽に対する純粋な喜びがある。」 1992年ストックホルム公演にビョルンとベニーをステージに
呼び、2人の演奏の下でダンシング・クィーンを会場全員で熱唱した。

作詞家でもあるビョルンには曲に相応しい言葉を生み出す才能がある。
”チキチータ”の事では、「歌詞が曲に乗らないと感じる事もある。この歌の主人公は最初Rosirita
だったが曲のどこに置いてもパッとしなかったのでもっとインパクトのある名前に変えた。
_Chiquitita。お陰でスペイン的な響きも出た。」

サウンドのみならず、アバの衣装にも注目の的になった。「悪趣味だ、けばけばしい」などの意見も
あったがそれだけ印象に残る物だったのだろう。
ビョルン:「常に人とは違う事をやりたかったから衣装には凝った。
 過激なら過激程いいと思ってたよ(笑)。」
衣装デザイナー、ウベ・サンドストロムは、「日本にいった影響だと思うが、フリーダが”トラの衣装が
いい”と言った。その衣装は最初はロングドレス調だがセパレートで下は凄いミニで皆、息を飲む
って訳さ!アグネタの様な体格のいい女性がタイトな服を着たのも初めての事だ。
翌日のコンサート評にはアグネタのお尻の事ばかり書いてあったよ。」

過激な衣装は意外な所でもリバイバルブームを巻き起こした。
NYのパブ「ダンシング・クィーン」の常連はゲイ、女装愛好者や性転換者達だ。
ベニー:「僕らには女装趣味はないんだがね(苦笑)」
女装愛好家達のブームは1994年のオーストラリア映画「プリシラ」の影響があるのかもしれない。
映画監督のステファン・エリオットは「”プリシア”は単なるきっかけを作っただけで、ゲイ達は最初
からアバが好きだった。彼らがブームを作ったんだ。」アバは元々オーストラリアで絶大な人気を
誇っていた。毎年シドニーで開かれるゲイのお祭りにもアバの衣装は人気の的。「オーストラリア
ではいち早くアバを受け入れ国民的アイドルにした。先見の明があった事を誇りに思っているよ。」
これが”その”衣装。ん〜〜っ、息を飲みそうDETH!

ツアー移動時のアバ

世界各地を巡るツアーのお陰でアバの人気はかつてのビートルズ
のように。スウェーデンでは”外貨の稼ぎ柱”と呼ばれた。けれども
彼らはステージよりもスタジオでの活動がよかった。マスコミや
ファンに付き纏われるのは4人の結束に影を落し始めた、、
当時の会見では
ビョルン:食って寝てステージに立つだけの生活では創作意欲を
なくしてしまう。
フリーダ:旅行は退屈だけどステージは好きよ。
アグネタ:ある朝、自分がどこにいるのか分からなくなった、
 ぞっとしたわ。
それでも彼らはステージ活動を続けていた、時にはあらぬ噂が
メンバーを傷つける事も。
アグネタ:「フリーダと私がいがみ合ってたなんてまったくのデタラメ、
2人はいいライバルだった。競い合いがエネルギーを生み、ステージ
を盛り上げていたのよ。フリーダの方が歌も踊りも目立ってたけど、
気にはならなかった。」
フリーダ:「私は楽しんでたわ、他のメンバーも楽しんでいたと思うけど、
ツアーの映画(アバ・ザ・ムービー)を見ると皆本当に楽しそうよ。
怖くなる事もあったわ。熱狂し興奮したファンに捕まったら、もう逃げ
られないんじゃないかって、、、」
ベニー:「僕は彼女のおびえに気付かなかったんだ。」
当時、フリーダの子供はもう大きくなっていたが、アグネタの方は妊娠
子育ての真っ最中だった。幼い子供と離れるのに耐えがたかった様だ。
アグネタ:「これは子供をもつ女性スターの共通の悩みね、2っに引き
裂かれるの。世界的成功を望む自分と子供の世話をしたい母親にね。」
ビョルン:「家にいたがるアグネタと仕事にかけていた僕との溝は広がる
一方だった。今となれば、彼女の気持ちも分かるが当時は駄目だった。
レコードの売上がかかっていたからね。」
結局1978年はツアーは行わず、ミュージックビデオで音楽活動を展開。しかしビョルンとアグネタの
関係は修復不可能になっていた。アグネタにとっては家族が第一、アバは二の次であった。
ビョルン:「僕は両方手に入れられると思っていたが、女性は違うらしい。僕は2〜3日なら子守りに
任せて家を空けてもいいと思ったが彼女は違った。」
この年の年末、2人は離婚、アバのイメージを崩さない様にと、記者会見では終始笑顔を装った。
アグネタ:「マスコミには”幸せな離婚”と発表したけど、実際はそんなのありえない。
子供を巻き込んでしまったし、マスコミにも傷つけられたわ。」
アバは音楽活動を続け、1980年には初来日したがメンバーの関係は冷えていった、、、
1981年にはフリーダとベニーも離婚。
ベニー:「離婚は大したことじゃない。お互い別の相手と再婚しても一緒に仕事はできる。」
マイケル:「彼らが私生活をスタジオに持ち込む事はなかった。皆、自尊心のきいた大人でスタジオで
荒れた事は一度もなかった。」
アバよりも家庭を取ったアグネタ

”Winner Takes It All”_
ビョルン:「離婚後に最高の曲が生まれた。
辛い経験のお陰でね。特に歌詞が変わった。
それまでは自分の思いだけで歌詞を書き、
彼女達に歌わせて満足していたんだ。」
フリーダ:「ビョルンから相談されたわ。この
歌詞はちょと感情的すぎないかって。でも
感情を注ぎ込むのはいい挑戦だと思ったわ。」
ポール:「彼らがこれほど感情的な曲を作る
とはね。最後のヒットとなったこの曲には
戸惑いすら感じた。自分たちのことをココまで
赤裸々に歌っていいものかとね。」
マイケル:「この悲しい曲で終わりかと思ったら
また新曲を出した。それは更に悲しい曲で
今度こそ終わりかと思ったがそれでもアバは
幕引きの決断が出来なかったみたいだ。」
1982年頃には活動も消極的になり終止符が打たれる事に、、、
ビョルン:「最後の最後にエネルギー切れになった。皆、何かが変だと感じたみたいだ。」
フリーダ:「仕事と割り切ろうにも感情が入り込んできて4人でやっていくには限界だった。これ以上
続けたいとは思えなかった。」
アグネタ:「アバにはうんざりだった。もう潮時だと思ったわ。」
同年結果的に最後のアルバムとなった「ザ・ヴィジターズ」 発表後、新曲6曲をレコーディング後、
活動を停止。10年間の活動で19のトップ10ヒットを生み出したアバの実質的解散であった。
その後、アグネタは4枚のソロアルバムを発表するも世界的な成功
までには至らなかった。1987年、アグネタは音楽界から完全に身を
引き、現在はストックホルム郊外で暮らしている。
アグネタ:「引退後の10年間は一切歌わず聴かず、音楽とは無縁の
暮らしだったわ。アバで燃え尽きた後には静寂が必要だった。
今の私に必要なのは散歩、それが癒しになるの。」

フリーダは解散後も音楽活動を続けるがスウェーデン以外では売上を
伸ばす事はなかった。現在はスイスに移り住み、環境問題に取り組ん
でいる。彼女も1992年の”アバ・ゴールド”が出るまでアバから遠ざか
っていた。(この1992年10月にリリースされた19曲入りベスト・アルバム
「アバ・ゴールド」がイギリスで16週連続1位を
ソロ時代のアグネタ

フリーダの近影

記録。翌年アメリカでもリリースされ104週連続でチャート・イン
という記録を作り、全世界で2000万枚以上の売上げを記録。)
フリーダ:「長いことアバの曲を聴こうとしなかったわ。その後、
昔の仲間がアバのリミックス版のテープを送ってきたので繰り
返し聴いて見たの。何年ぶりかに聴くアグネタや自分の声、
素晴らしい仕上りの曲。幸福な瞬間だったわ。
私の夢はアバとの出会いでかなえられた。あの時代の私達の
活動は素晴らしいものだった、
でもビョルンとベニーには別のゴールが見えていたのね。」
ベニー:「僕は自分で確かめたかった、自分がどこまで飛べるか。
だから新しい挑戦が必要だったんだ。」
最も新しいビョルンとベニーの挑戦はミュージカル”Mama Mia”。
ビョルン:「アバの曲を27曲使ってアバとは関係ない全く新しい物語を作った。
ミュージカル作品として評価されているよ。」
”Mama Mia”公演での3人

ティム・ライス:「アバは北欧音楽史上最高レベルの音楽家だ。シベリウスやグリーグなどの
大作曲家と並ぶ存在だ」
ピート・ウォーターマン:「ビートルズ、アバ、ビーチボーイズ_彼らこそポップ界の最高峰だ。」
マルコム・マクラレン:「アバは大量消費者向きで誰をも虜ににしてしまう。」
ポール・ガンバチーロ:「アバはイギリスで9曲を1にした。これを超えるのはエルビスと
クリフとビートルズだけだ。」
ポノ:「アバの音楽は不死身だ。最高のポップグループの一つだよ。」

1998年イギリスアールエム・アソシエイツ、イアンビッグプロダクション制作番組より

25周年を迎えた1999年にはまたまたアバ人気が世界中で高まりを見せ、
同年4月6
にアバの代表的ヒット曲が27曲フィーチュアされたミュージカル
”Mama Mia”がロンドンのプリンス・エドワード劇場で上演されるやいなや空前の
人気でロング・ラン公演中である。